私が創作活動を生業と決めたのは32歳の時。公務員を辞し、「道場」という名のプレハブ小屋を建てた。すると、そこに多くの若者が集った。そして共に研さんを重ねた。あれから20年がたち、当時の若者たちは「なりたい自分」を見つけ、巣立っていった。良い時ばかりではなかったが、その道のりこそが、自身と向き合う好機であった。自分のなすべき仕事とは、世の中の役に立つとは、誰かの評価に左右されず静かに働くとは、何か。まだ何者でもない私だが、若者に向け、「なりたい自分」を見つけたのなら、それを諦めないで続けていけと伝えたい。
37歳で夭逝した宮沢賢治は、多くの言葉を残している。「農民芸術概論綱要」では、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」。未完だった「盛岡中学校校友会雑誌」への寄稿「生徒諸君に寄せる」では、「諸君は新たな自然を形成するのに努めねばならぬ」。童話「マリヴロンと少女」では、「清く正しくはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくる」「それがあらゆる人々の一番高い芸術です」。
彼が求め続けたテーマには、 自分の中の光を見つけ、それを信じ、社会のために励めという次代へのメッセージが込められている。羅須地人協会で実践したかったことは、農民に芸術の素晴らしさを伝えるだけではなく、その仕事や生き方こそが芸術であるのだと教えることだった。協会はそのための「道場」だったのだと私には思える。
賢治が生まれた1896年には三陸大津波、最愛の妹を亡くした翌年の23年には関東大震災、没年の33年には三陸地震大津波がそれぞれ発生。戦争に突き進む日本、足元の貧困。自由という概念がゆがめられてゆく瀬戶際。自然への畏怖や敬い。彼は人知や科学の未熟さへの自覚と期待を常に意識しつつ、思想という岩を残そうとした。本当の豊かさとは何かと、問い続けて。
2014年9月21日、賢治の命日に宮沢賢治記念館(花巻市)であった行事で、私は音楽劇「マリヴロン楽隊」を結成した。以来続く公演活動の中で、彼の一貫した問いに心を打たれる。あらゆる人の一番高い芸術は、その生き方と心のあり方にこそあるのだと。
河北新報朝刊・寄稿コラム「微風旋風」No. 5(2020年10月22日・文化面掲載)
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